大河ドラマ「八重の桜」 第25回 白虎隊出陣 感想
カテゴリ:八重の桜
日時:2013/06/23 21:36
慶応4年(1868年)8月19日(陽暦10月)、二本松城に入った大山、伊地知、板垣は、本格的な冬を控えて会津侵攻ルートを協議します。冬の到来が新政府軍に不利で会津に有利なことは、後の官兵衛の進言の通り。
黒河内道場では、黒河内が病みついて「情けねえ」を連呼している状態。その中で、竹子が薙刀隊を組織して気勢を上げています。当然のように八重も勧誘する薙刀隊ですが、八重は拒否。
八重「薙刀で薩長は倒せねぇ」
結果論ではありますが、これが妥当な判断ですね。新式銃を装備したとんがりコーン軍相手に薙刀ってのは、程度の差はあれど太平洋戦争時の竹槍と同レベルのメンタリティです。敵の能力や装備に応じて有効な策を講じるべきで、「敵を知り己を知れば……」という孫子の初歩レベルの認識すら欠落しているのが竹子たち。 8月20日、鶴ヶ城では新政府軍の動きが読み切れず、兵力分散もあってにっちもさっちもいかない状態。しょんぼり気味になる家老ズに、「雪が降れば、我がほうが俄然有利!」と景気づけする官兵衛。
という官兵衛と大蔵に、家老昇進のお沙汰が下ります。公式ドラマ・ストーリーによると「若い力に期待がよせられた」とのこと。後、敗色濃厚な軍隊では昇進が乱発気味になるケースもあったりしますが……。
西郷は京の薩摩藩邸に滞在中。そこで、中村半次郎に日光口の攻撃を命じます。あー、きましたね、桐野利秋。やはり西南戦争もそれなりにちゃんと描くつもりなのかな。
中村半次郎(桐野利秋)に「会津は最後の一兵まで戦い抜くだろう」と言われ、会津戦争の落としどころを模索し始めます。
西郷「私怨で始めた戦じゃなか。治むっ道を探らんなならん。……話してみっか、あん男と……」
というわけで獄中の覚馬に会いに行く西郷ですが、覚馬は流行病で半死半生。残念ながら、今回は覚馬と西郷の会話は成立せず。
8月21日、とんがりコーン軍が母成峠を突破し、会津と同盟軍は猪苗代城に退却。
翌8月22日、会津城下に登城を命じる「家並みの触れ」が城下を駆け巡ります。山川家では、登城する健次郎に艶が歌を贈ります。
天下 とどろく名をば 上げずとも 遅れなとりそ もののふの道
艶「手柄は上げずともよい。んだげんじょ、命を惜しんで遅れをとってはなりませぬ」
『平清盛』第20回の時子、由良のセリフといい、大河ドラマも女性(母親)が実にまともになりました。「必ず生きて帰ってきて遅れ」などとメソメソされては興ざめです。そう言いたいであろう本心を隠して我が子を送り出すからこそ切ないのです。そのあたりが分かっていなかったのが『江』でした。
山本家は権八と尚之助が出陣。共を願い出る八重ですが、佐久に「お許しもなくおなごを戦に連れて行けるわげがねぇべ」と叱責されて断念。が、100%諦めたわけではないところが八重さんらしい。
猪苗代城では、城に火をかけて撤退する準備が進行中。土方は仙台で榎本艦隊と合流をもくろみ、会津に戻る斉藤とグッバイ。斉藤は時尾さんと結婚する必要もありますしね。
鶴ヶ城本陣は、猪苗代の敗走に動揺。そこで、出陣すると言い出す容保。当然ながら制止する家老ズ。
容保「いや……。こたびこそ、わしは皆と共に戦わねばならぬ」
鳥羽・伏見の戦いで兵を置き去りにして戦場から去った後ろめたさですか。容保の悲痛さを想うと、制止しきれない家老ズも泣かせます。
が、既に十六橋がとんがりコーン軍の手に落ち、戸ノ口原に援軍を回さねばならなくなります。ここで、「白虎隊を出陣させねばなりません」と言われたときの、容保の逡巡の表情はよかった。こうして、白虎士中二番隊に出陣命令が下ります。
山本家では、女性の登城を控え、徳造とお吉に退去を命じます。ここのシーンも深くて泣かせます。徳造らは身分が低いため、城を守るために命を賭ける義務を負わされません。ここが武家の妻女と違うところ。逆に、限られた兵糧を温存するためにも人員は最小限でなければならず、徳造らが入城を願っても許されません。こうした身分制度の枠内で、最後まで山本家に使えようとする徳造らと、彼らのために「必要な物があれば持っていけ」という佐久らがよかった。
援軍として出陣した白虎士中二番隊は、戸ノ口原で野営。ここで、史実通り隊長の日向が隊を離れます。そして、もう戻りません。日向がここで隊を離れなかったら、二番隊の運命は少しは変わったのでしょうか。敗走自体は避けられなかったでしょうが。
8月23日早朝、戸ノ口原で戦闘開始。
同日、城下では半鐘が打ち鳴らされ、妻女も登城することに。八重は三郎の軍服を着てスペンサー銃を持って登場。
八重「今から私が三郎だ。逆賊呼ばわりして会津を滅ぼしに来る者たちを私は許さねえ」
ちなみに、八重の最後のセリフは、ドラマ・ストーリーでは「逆賊の汚名を着せて、会津を滅ぼしに来る者たちには、負けだぐねぇ」でした。
・2013年 大河ドラマ「八重の桜」キャスト(配役)
・大河ドラマ「八重の桜」 主要人物年齢年表(会津編)
もご利用ください。
黒河内道場では、黒河内が病みついて「情けねえ」を連呼している状態。その中で、竹子が薙刀隊を組織して気勢を上げています。当然のように八重も勧誘する薙刀隊ですが、八重は拒否。
八重「薙刀で薩長は倒せねぇ」
結果論ではありますが、これが妥当な判断ですね。新式銃を装備したとんがりコーン軍相手に薙刀ってのは、程度の差はあれど太平洋戦争時の竹槍と同レベルのメンタリティです。敵の能力や装備に応じて有効な策を講じるべきで、「敵を知り己を知れば……」という孫子の初歩レベルの認識すら欠落しているのが竹子たち。 8月20日、鶴ヶ城では新政府軍の動きが読み切れず、兵力分散もあってにっちもさっちもいかない状態。しょんぼり気味になる家老ズに、「雪が降れば、我がほうが俄然有利!」と景気づけする官兵衛。
という官兵衛と大蔵に、家老昇進のお沙汰が下ります。公式ドラマ・ストーリーによると「若い力に期待がよせられた」とのこと。後、敗色濃厚な軍隊では昇進が乱発気味になるケースもあったりしますが……。
西郷は京の薩摩藩邸に滞在中。そこで、中村半次郎に日光口の攻撃を命じます。あー、きましたね、桐野利秋。やはり西南戦争もそれなりにちゃんと描くつもりなのかな。
中村半次郎(桐野利秋)に「会津は最後の一兵まで戦い抜くだろう」と言われ、会津戦争の落としどころを模索し始めます。
西郷「私怨で始めた戦じゃなか。治むっ道を探らんなならん。……話してみっか、あん男と……」
というわけで獄中の覚馬に会いに行く西郷ですが、覚馬は流行病で半死半生。残念ながら、今回は覚馬と西郷の会話は成立せず。
8月21日、とんがりコーン軍が母成峠を突破し、会津と同盟軍は猪苗代城に退却。
翌8月22日、会津城下に登城を命じる「家並みの触れ」が城下を駆け巡ります。山川家では、登城する健次郎に艶が歌を贈ります。
天下 とどろく名をば 上げずとも 遅れなとりそ もののふの道
艶「手柄は上げずともよい。んだげんじょ、命を惜しんで遅れをとってはなりませぬ」
『平清盛』第20回の時子、由良のセリフといい、大河ドラマも女性(母親)が実にまともになりました。「必ず生きて帰ってきて遅れ」などとメソメソされては興ざめです。そう言いたいであろう本心を隠して我が子を送り出すからこそ切ないのです。そのあたりが分かっていなかったのが『江』でした。
山本家は権八と尚之助が出陣。共を願い出る八重ですが、佐久に「お許しもなくおなごを戦に連れて行けるわげがねぇべ」と叱責されて断念。が、100%諦めたわけではないところが八重さんらしい。
猪苗代城では、城に火をかけて撤退する準備が進行中。土方は仙台で榎本艦隊と合流をもくろみ、会津に戻る斉藤とグッバイ。斉藤は時尾さんと結婚する必要もありますしね。
鶴ヶ城本陣は、猪苗代の敗走に動揺。そこで、出陣すると言い出す容保。当然ながら制止する家老ズ。
容保「いや……。こたびこそ、わしは皆と共に戦わねばならぬ」
鳥羽・伏見の戦いで兵を置き去りにして戦場から去った後ろめたさですか。容保の悲痛さを想うと、制止しきれない家老ズも泣かせます。
が、既に十六橋がとんがりコーン軍の手に落ち、戸ノ口原に援軍を回さねばならなくなります。ここで、「白虎隊を出陣させねばなりません」と言われたときの、容保の逡巡の表情はよかった。こうして、白虎士中二番隊に出陣命令が下ります。
山本家では、女性の登城を控え、徳造とお吉に退去を命じます。ここのシーンも深くて泣かせます。徳造らは身分が低いため、城を守るために命を賭ける義務を負わされません。ここが武家の妻女と違うところ。逆に、限られた兵糧を温存するためにも人員は最小限でなければならず、徳造らが入城を願っても許されません。こうした身分制度の枠内で、最後まで山本家に使えようとする徳造らと、彼らのために「必要な物があれば持っていけ」という佐久らがよかった。
援軍として出陣した白虎士中二番隊は、戸ノ口原で野営。ここで、史実通り隊長の日向が隊を離れます。そして、もう戻りません。日向がここで隊を離れなかったら、二番隊の運命は少しは変わったのでしょうか。敗走自体は避けられなかったでしょうが。
8月23日早朝、戸ノ口原で戦闘開始。
同日、城下では半鐘が打ち鳴らされ、妻女も登城することに。八重は三郎の軍服を着てスペンサー銃を持って登場。
八重「今から私が三郎だ。逆賊呼ばわりして会津を滅ぼしに来る者たちを私は許さねえ」
ちなみに、八重の最後のセリフは、ドラマ・ストーリーでは「逆賊の汚名を着せて、会津を滅ぼしに来る者たちには、負けだぐねぇ」でした。
・2013年 大河ドラマ「八重の桜」キャスト(配役)
・大河ドラマ「八重の桜」 主要人物年齢年表(会津編)
もご利用ください。