大河ドラマ「真田丸」 第36回 勝負 感想
カテゴリ:真田丸
日時:2016/09/11 23:35
真田昌幸最後の合戦、第二次上田合戦です。史実と俗説の整合性を見事に作り上げる手腕はお見事のひと言。さすが三谷幸喜です。ただ、演出面はイマイチだったと感じました。
7月24日、徳川家康が小山に到着します。石田三成挙兵の知らせを受けたのはこのときであったというのが一般的。本作の家康は、知らせを受けて爪をかむそぶりを見せているので動揺したようです。前回も書いた通り、三成の暴発を待っていた、そのために大坂をあえてガラ空きにした、というパターンでないのは割と新鮮です。
ドラマでは、真田信幸が家康の陣にやってきたのも7月24日としていたので、家康の小山到着直後ということになります。翌25日は有名な「小山評定」ですから、事前に家康と話すにはこのタイミングしかないわけですが。
ここで父・昌幸と弟・真田信繁の離反を報告。昌幸たちの離反を見過ごしたこと、信幸だけは徳川方に残ったことなど賛否両論挙がる中、家康は「希に見る忠義ものじゃ」と信幸を称賛してこの場を収めます。口調からして、心底信用している感じではありませんでしたが。 そして小山評定。かなーりはしょってますが、流れはおおむね通説通りです。大坂に妻子を人質として残しているだろうから進退は自由であると伝えて判断を諸将にゆだね、「黒田長政に説得された」(ドラマでは描写なし)福島正則が、家康に味方すると第一声を上げます。これに諸将が続き、家康による豊臣恩顧大名の掌握完了。
山内一豊を初めとする東海道大名のお城プレゼントもスルーですが、『真田丸』にはまぁ特に必要ないエピソードでしょう。
小山評定に先立ち離反した昌幸一行は、沼田城の近くまで来ていました。犬伏から西に向かい、足利を経由して高崎あたりで北上して前橋、渋川、昌幸が整備したとされる伊香保を通った、という感じでしょうか。地図を見ながら適当に想像しただけですが。
そこへ、大坂を脱出してきた稲とこうが合流。沼田城エピは有名ながら、問題は信幸の正室たる小松姫は大坂で人質になっていたはず、ということでした。また、昌幸が信幸と敵味方に分かれたことをいつ知ったのか、というのも不信なところです。が、稲だけは本多忠勝の娘なので大谷吉継の保護を受けずに脱出してきた、(いささかご都合主義ながら)沼田城に向かう途中で昌幸たちと会ったとすることで、逸話と史実の整合性をうまく取っています。いや、お見事。
合流した稲に信幸が徳川方に残ったことを伝えると、一瞬考え、決意の表情を見せます。あ、このとき覚悟を決めましたね、と伝わる演技でした。夫に代わって昌幸たちを迎える用意がしたいと、先発を申し出る稲。稲が昌幸をもだます計略を発動した瞬間です。有名なエピに見事につなげたものです。
稲に遅れて昌幸一行が沼田城に到着すると、甲冑を着た稲が登場。開門を拒否します。稲の指示で城兵が矢を射かけようとするにおよび、昌幸は沼田入城を諦めます。
昌幸「源三郎はよい嫁をもろうたのう」
と、セリフこそ違えど幾つかの記録にある通り、稲を称賛して立ち去ります。
上田城に入った昌幸は、信幸が徳川方に残ったと説明。動揺する上田城の諸将。
昌幸「戦に情けは禁物じゃ。遠慮はするな。……まぁしかし、多少は気に掛けろ」
防戦準備の傍ら、昌幸は三成とメールのやりとり。「切り取り次第」(占領した土地は自分のものにしていいよ)という三成に、甲斐・信濃を要求します。OKのリプライに、「よっしゃー」と大喜びの昌幸さんがかわいいというか、かわいそうというか……。
8月24日、徳川秀忠出陣。直江兼続は、まだ動くべきではないと上杉景勝を制止します。上杉が動くのは三成と家康が衝突してから。ひと月ふた月で決着がつかないと予想します。結果的には大ハズレなのですが、まぁ当時の人はみな長引くと思ったことでしょう。イタいことに、結果論としては三成と兼続の両方が判断ミスをしていること。三成が動くのは家康と景勝が開戦してからにするべきだったし、兼続は関ヶ原の前に動くべきだった。家康の天下取りには、この2人の華麗な無能コラボレーションが不可欠でした。
9月2日、秀忠が小諸に到着。このタイミングで、昌幸が降伏を申し入れてきます。
国分寺で降伏交渉に入った徳川と真田。が、真田が突きつけてきた条件は、ナメてるとしかいいようがないずうずうしい内容。
秀忠「これは……怒ってもよいのか?」
正信「むろん」
この秀忠、何か憎めません。ムカイリのときは、いっそ首を取られてしまえって感じでしたが。
で、予定通り交渉は決裂。これが9月4日。
秀忠は6日、染屋原に布陣します。ここで、諸説ある戸石城のくだりを信繁発案、信幸とも示し合わせた出来レースとして処理することが判明。ここでまたうまいと思ったのが、三十郎の処遇です。
ドラマでは信繁にベッタリ、信繁ラブラブな三十郎をこの後どうする気なのか? が気になっていました。というのも、この三十郎は信幸の家臣となり、九度山に配流された信繁に従っていないのです。関ヶ原の戦いで徳川の勝利が確定し、昌幸が配流されたことで信之(信幸)が当主になったため、単に当主に従ったのでしょうが、ドラマとしてはイマイチ盛り上がりません。この三十郎だと、九度山まで信繁に付いてきちゃいそうな勢いです。
が、戸石城のくだりを出来レース化し、そのキーマンとして三十郎を配して信幸配下に組み入れる。自然な展開だし、突然の信繁の命令に顔を歪ませる三十郎がけなげで素晴らしかった。
信繁から茶番のシナリオを受け取った信幸は、戸石城攻めを志願して許されます。徳川方に十分信用されていない信幸にとって、戸石城攻めはさまざまな意味を持ちます。真田方の城を攻めさせることで信幸の忠誠心を測る踏み絵でもあり、上田城から引き離すことで城攻め中に信幸が妙なマネをすることを防ぐことにもなるでしょう。
こうして信幸と平岩親吉による戸石城攻めが始まります。が、信幸にしろ親吉にしろ、主将クラスが城門に近づき過ぎ。ガチなら城壁から狙撃されて終了って距離感です。兄弟が顔を見合わせる必要から、というか実戦的な距離を空けると画作り的にスカスカになるからでしょうが、どう考えても城門に近づき過ぎだし、城側としては近づかれ過ぎです。
しかも、ショボイ銃撃戦が始まった直後に三十郎が門を開いちゃうし。あのタイミングじゃ、門を開こうとする不審者はすぐに見とがめられることでしょう。城内は信繁の計画が周知されていたとしても、誰にも妨害されずにひょいと門を開くことができた三十郎を親吉が不信に思わないのもおかしい。後で親吉が三十郎をにらみつけてましたが、あれは不信感というより裏切り者をなぶるような目かな、と解釈しました。
予定通り信繁が撤退し、戸石城は落城。信幸が戸石城から動かず、真田同士が戦わなかったのは史実通り。また、これで信幸軍の分だけ上田城攻めに参加する兵力が減ったということでもあります。信幸が動かなかったことが問題視された感じはないので、徳川方でもその行動を是認していたのでしょう。
次に、昌幸は信繁、ヒゲ誠、作兵衛に作戦を与えます。基本的にはゲリラ戦の発想です。まずは、敵将の陣を襲撃する信繁。夜襲はいいのですが、いきなり本陣に攻め込まれちゃう平野ってどうなのさ……。戸石城のくだりといい、戦闘シーンになるといきなりデタラメで適当な演出になります。
ヒゲ誠の兵糧ドロボーも作兵衛の刈田妨害もあっさり成功したっぽい。どれもこれも、カタルシス不足で萎えます。
実際は、徳川が刈田を開始、真田がそれを妨害しようと城から出るも上田城へ敗走。徳川方がそれを追撃すると、上田城に反撃されて徳川方が敗走などなど、それなりにカタルシスが得られるエピもあるはずなのですが。
さらに、ドラマでは昌幸が信繁に、染屋原の秀忠本陣を突くように命じます。これは、虚空蔵山から染屋原の本陣を攻撃させて、秀忠が陣を後退させた史実を利用したものでしょう。もちろん、史実でも秀忠の首は取れていませんが。
信繁に秀忠の首を取ってこいと命じた昌幸ですが、実は秀忠の首は取れなくてもよいと言います。
昌幸「初陣で戦の怖さを思い知らされた者は生涯戦下手で終わる」
俗説では、こんな何やかんやで上田城を攻めあぐね、諸将の諫言により秀忠は上田城攻めを諦めて関ヶ原に向かうことにしたということになります。失敗作『江』の上田合戦はこのパターン。失意のムカイリ秀忠は落馬して頭を強打、ゲラゲラ笑って壊れるという、演出も脚本も演技も悲惨な有り様でした。
『真田丸』の上田合戦は、俗説ベースではなく史実ベース。9月9日、秀忠の下へ家康から「9月9日までに美濃赤坂にこいや」というメールが届きます。これにより、秀忠は上田城攻めを中止して美濃に向かったというわけです。
実際にはもっと早いタイミングで染屋原の本陣攻めは実施されていたのですが、ドラマでは9月9日に実施されたため、信繁たちが秀忠の本陣につくともぬけの殻だった、ということになりました。
こうして、肩すかしでカタルシスのない第二次上田合戦は終了。大泉洋の演技は良かったけど、それ以外はイマイチな感じでした。せき止めていた神川の堰を切って徳川兵を押し流したりもしているのですが、第一次上田合戦でこのネタを使っちゃいましたしね。
そして運命の9月15日。つまり関ヶ原の戦いの日。三成、家康の本陣が描写され、特に自信満々にニヤっと笑う三成が印象的。が、シーンは上田城の戦勝パーティー開城に切り替わります。夜になってるということは、関ヶ原終わってるやん!
大盛り上がりの上田城メンバー。そこへ佐助が到着。佐助のただならぬ様子に1人だけ気付いた信繁が、騒ぐ一同を一喝。すると、佐助が語るのは関ヶ原終了のお知らせ。徳川方大勝利の報告に言葉を失う一同なのでした。
関ヶ原が佐助のセリフだけで終了かよ(次回、あらためて関ヶ原をやるかもしれませんが)と思ったものの、真田の物語としてはあれでよかったのでしょう。上田城を守り抜き、秀忠を足止めすることもできた。これで恩賞は思いのままと思っていたら、東軍西軍の争いはたった1回の野戦で決着してしまい、いきなり自分も敗者になったことを知る。まさにあんな感じだったことでしょう。
しかし、考えてみると妙なタイミングです。秀忠の撤退が9月9日。空の本陣を見て、真田は勝利を知ることになります。上田城の押さえとして徳川方の兵が残されており、小競り合いが続いたようですが、実質的な勝利は早期に確定したことでしょう。が、(関ヶ原の帰趨とは無関係な)戦勝パーティーが行われていたのは9月15日の夜。パーティー開始がなぜか遅れたのか、それとも9日から連夜開催だったのか……。
2016年 大河ドラマ「真田丸」キャスト(配役)
もご利用ください。
7月24日、徳川家康が小山に到着します。石田三成挙兵の知らせを受けたのはこのときであったというのが一般的。本作の家康は、知らせを受けて爪をかむそぶりを見せているので動揺したようです。前回も書いた通り、三成の暴発を待っていた、そのために大坂をあえてガラ空きにした、というパターンでないのは割と新鮮です。
ドラマでは、真田信幸が家康の陣にやってきたのも7月24日としていたので、家康の小山到着直後ということになります。翌25日は有名な「小山評定」ですから、事前に家康と話すにはこのタイミングしかないわけですが。
ここで父・昌幸と弟・真田信繁の離反を報告。昌幸たちの離反を見過ごしたこと、信幸だけは徳川方に残ったことなど賛否両論挙がる中、家康は「希に見る忠義ものじゃ」と信幸を称賛してこの場を収めます。口調からして、心底信用している感じではありませんでしたが。 そして小山評定。かなーりはしょってますが、流れはおおむね通説通りです。大坂に妻子を人質として残しているだろうから進退は自由であると伝えて判断を諸将にゆだね、「黒田長政に説得された」(ドラマでは描写なし)福島正則が、家康に味方すると第一声を上げます。これに諸将が続き、家康による豊臣恩顧大名の掌握完了。
山内一豊を初めとする東海道大名のお城プレゼントもスルーですが、『真田丸』にはまぁ特に必要ないエピソードでしょう。
小山評定に先立ち離反した昌幸一行は、沼田城の近くまで来ていました。犬伏から西に向かい、足利を経由して高崎あたりで北上して前橋、渋川、昌幸が整備したとされる伊香保を通った、という感じでしょうか。地図を見ながら適当に想像しただけですが。
そこへ、大坂を脱出してきた稲とこうが合流。沼田城エピは有名ながら、問題は信幸の正室たる小松姫は大坂で人質になっていたはず、ということでした。また、昌幸が信幸と敵味方に分かれたことをいつ知ったのか、というのも不信なところです。が、稲だけは本多忠勝の娘なので大谷吉継の保護を受けずに脱出してきた、(いささかご都合主義ながら)沼田城に向かう途中で昌幸たちと会ったとすることで、逸話と史実の整合性をうまく取っています。いや、お見事。
合流した稲に信幸が徳川方に残ったことを伝えると、一瞬考え、決意の表情を見せます。あ、このとき覚悟を決めましたね、と伝わる演技でした。夫に代わって昌幸たちを迎える用意がしたいと、先発を申し出る稲。稲が昌幸をもだます計略を発動した瞬間です。有名なエピに見事につなげたものです。
稲に遅れて昌幸一行が沼田城に到着すると、甲冑を着た稲が登場。開門を拒否します。稲の指示で城兵が矢を射かけようとするにおよび、昌幸は沼田入城を諦めます。
昌幸「源三郎はよい嫁をもろうたのう」
と、セリフこそ違えど幾つかの記録にある通り、稲を称賛して立ち去ります。
上田城に入った昌幸は、信幸が徳川方に残ったと説明。動揺する上田城の諸将。
昌幸「戦に情けは禁物じゃ。遠慮はするな。……まぁしかし、多少は気に掛けろ」
防戦準備の傍ら、昌幸は三成とメールのやりとり。「切り取り次第」(占領した土地は自分のものにしていいよ)という三成に、甲斐・信濃を要求します。OKのリプライに、「よっしゃー」と大喜びの昌幸さんがかわいいというか、かわいそうというか……。
8月24日、徳川秀忠出陣。直江兼続は、まだ動くべきではないと上杉景勝を制止します。上杉が動くのは三成と家康が衝突してから。ひと月ふた月で決着がつかないと予想します。結果的には大ハズレなのですが、まぁ当時の人はみな長引くと思ったことでしょう。イタいことに、結果論としては三成と兼続の両方が判断ミスをしていること。三成が動くのは家康と景勝が開戦してからにするべきだったし、兼続は関ヶ原の前に動くべきだった。家康の天下取りには、この2人の華麗な無能コラボレーションが不可欠でした。
9月2日、秀忠が小諸に到着。このタイミングで、昌幸が降伏を申し入れてきます。
国分寺で降伏交渉に入った徳川と真田。が、真田が突きつけてきた条件は、ナメてるとしかいいようがないずうずうしい内容。
秀忠「これは……怒ってもよいのか?」
正信「むろん」
この秀忠、何か憎めません。ムカイリのときは、いっそ首を取られてしまえって感じでしたが。
で、予定通り交渉は決裂。これが9月4日。
秀忠は6日、染屋原に布陣します。ここで、諸説ある戸石城のくだりを信繁発案、信幸とも示し合わせた出来レースとして処理することが判明。ここでまたうまいと思ったのが、三十郎の処遇です。
ドラマでは信繁にベッタリ、信繁ラブラブな三十郎をこの後どうする気なのか? が気になっていました。というのも、この三十郎は信幸の家臣となり、九度山に配流された信繁に従っていないのです。関ヶ原の戦いで徳川の勝利が確定し、昌幸が配流されたことで信之(信幸)が当主になったため、単に当主に従ったのでしょうが、ドラマとしてはイマイチ盛り上がりません。この三十郎だと、九度山まで信繁に付いてきちゃいそうな勢いです。
が、戸石城のくだりを出来レース化し、そのキーマンとして三十郎を配して信幸配下に組み入れる。自然な展開だし、突然の信繁の命令に顔を歪ませる三十郎がけなげで素晴らしかった。
信繁から茶番のシナリオを受け取った信幸は、戸石城攻めを志願して許されます。徳川方に十分信用されていない信幸にとって、戸石城攻めはさまざまな意味を持ちます。真田方の城を攻めさせることで信幸の忠誠心を測る踏み絵でもあり、上田城から引き離すことで城攻め中に信幸が妙なマネをすることを防ぐことにもなるでしょう。
こうして信幸と平岩親吉による戸石城攻めが始まります。が、信幸にしろ親吉にしろ、主将クラスが城門に近づき過ぎ。ガチなら城壁から狙撃されて終了って距離感です。兄弟が顔を見合わせる必要から、というか実戦的な距離を空けると画作り的にスカスカになるからでしょうが、どう考えても城門に近づき過ぎだし、城側としては近づかれ過ぎです。
しかも、ショボイ銃撃戦が始まった直後に三十郎が門を開いちゃうし。あのタイミングじゃ、門を開こうとする不審者はすぐに見とがめられることでしょう。城内は信繁の計画が周知されていたとしても、誰にも妨害されずにひょいと門を開くことができた三十郎を親吉が不信に思わないのもおかしい。後で親吉が三十郎をにらみつけてましたが、あれは不信感というより裏切り者をなぶるような目かな、と解釈しました。
予定通り信繁が撤退し、戸石城は落城。信幸が戸石城から動かず、真田同士が戦わなかったのは史実通り。また、これで信幸軍の分だけ上田城攻めに参加する兵力が減ったということでもあります。信幸が動かなかったことが問題視された感じはないので、徳川方でもその行動を是認していたのでしょう。
次に、昌幸は信繁、ヒゲ誠、作兵衛に作戦を与えます。基本的にはゲリラ戦の発想です。まずは、敵将の陣を襲撃する信繁。夜襲はいいのですが、いきなり本陣に攻め込まれちゃう平野ってどうなのさ……。戸石城のくだりといい、戦闘シーンになるといきなりデタラメで適当な演出になります。
ヒゲ誠の兵糧ドロボーも作兵衛の刈田妨害もあっさり成功したっぽい。どれもこれも、カタルシス不足で萎えます。
実際は、徳川が刈田を開始、真田がそれを妨害しようと城から出るも上田城へ敗走。徳川方がそれを追撃すると、上田城に反撃されて徳川方が敗走などなど、それなりにカタルシスが得られるエピもあるはずなのですが。
さらに、ドラマでは昌幸が信繁に、染屋原の秀忠本陣を突くように命じます。これは、虚空蔵山から染屋原の本陣を攻撃させて、秀忠が陣を後退させた史実を利用したものでしょう。もちろん、史実でも秀忠の首は取れていませんが。
信繁に秀忠の首を取ってこいと命じた昌幸ですが、実は秀忠の首は取れなくてもよいと言います。
昌幸「初陣で戦の怖さを思い知らされた者は生涯戦下手で終わる」
俗説では、こんな何やかんやで上田城を攻めあぐね、諸将の諫言により秀忠は上田城攻めを諦めて関ヶ原に向かうことにしたということになります。失敗作『江』の上田合戦はこのパターン。失意のムカイリ秀忠は落馬して頭を強打、ゲラゲラ笑って壊れるという、演出も脚本も演技も悲惨な有り様でした。
『真田丸』の上田合戦は、俗説ベースではなく史実ベース。9月9日、秀忠の下へ家康から「9月9日までに美濃赤坂にこいや」というメールが届きます。これにより、秀忠は上田城攻めを中止して美濃に向かったというわけです。
実際にはもっと早いタイミングで染屋原の本陣攻めは実施されていたのですが、ドラマでは9月9日に実施されたため、信繁たちが秀忠の本陣につくともぬけの殻だった、ということになりました。
こうして、肩すかしでカタルシスのない第二次上田合戦は終了。大泉洋の演技は良かったけど、それ以外はイマイチな感じでした。せき止めていた神川の堰を切って徳川兵を押し流したりもしているのですが、第一次上田合戦でこのネタを使っちゃいましたしね。
そして運命の9月15日。つまり関ヶ原の戦いの日。三成、家康の本陣が描写され、特に自信満々にニヤっと笑う三成が印象的。が、シーンは上田城の戦勝パーティー開城に切り替わります。夜になってるということは、関ヶ原終わってるやん!
大盛り上がりの上田城メンバー。そこへ佐助が到着。佐助のただならぬ様子に1人だけ気付いた信繁が、騒ぐ一同を一喝。すると、佐助が語るのは関ヶ原終了のお知らせ。徳川方大勝利の報告に言葉を失う一同なのでした。
関ヶ原が佐助のセリフだけで終了かよ(次回、あらためて関ヶ原をやるかもしれませんが)と思ったものの、真田の物語としてはあれでよかったのでしょう。上田城を守り抜き、秀忠を足止めすることもできた。これで恩賞は思いのままと思っていたら、東軍西軍の争いはたった1回の野戦で決着してしまい、いきなり自分も敗者になったことを知る。まさにあんな感じだったことでしょう。
しかし、考えてみると妙なタイミングです。秀忠の撤退が9月9日。空の本陣を見て、真田は勝利を知ることになります。上田城の押さえとして徳川方の兵が残されており、小競り合いが続いたようですが、実質的な勝利は早期に確定したことでしょう。が、(関ヶ原の帰趨とは無関係な)戦勝パーティーが行われていたのは9月15日の夜。パーティー開始がなぜか遅れたのか、それとも9日から連夜開催だったのか……。
2016年 大河ドラマ「真田丸」キャスト(配役)
もご利用ください。