『真田丸』第5回、「本能寺の変」直後の人物移動はかなりギリギリ(信繁編)

カテゴリ:資料&ネタ
日時:2016/02/10 00:05

以前、江が神君伊賀越えから清州城に帰還するまでの検証を行いました。そして何と、「9歳女児の体力」さえ無視すれば、意外に余裕があるスケジュールであったことが分かりました。

では、『真田丸』第5回における本能寺の変直後の混乱はどうだったのか。気になったのでちょっと考えてみました。馬での移動速度とか、不明な点が多すぎるので、まあ1つの思考実験だと思ってください。

本検証の前提条件は以下の通り。
・本能寺の変は天正10年6月2日である
 6月2~4日は月明かりがほとんどない
・第5回終了時点は「6月4日」である
 最後のナレ「本能寺の変から2日」と、明智勢が安土城に到達していないことから
・距離と徒歩時間はGoogleマップで算出
 整備された道路、山賊も出ない治安状況がベースである 登場人物のタイムテーブルは以下のようになると思います。光秀、家康、秀吉の行動は史実通りなので、今回の検証からは外します。






























































































    光秀 家康 昌幸 信繁 薬売り 明智の使者 秀吉
6月2日 未明 本能寺の変            
日中 京、
近江
制圧
本能寺の変を知る   ・異変を知る
・京に出発
本能寺の変を知る    
夜? 山城宇治田原到着   移動     本能寺の変を知る
6月3日 夜~朝     本能寺情報を
信幸に伝える
坂本城からスタート?
日中   本能寺の変を知る ・本能寺見物
・安土へ出発
真田の郷到着  
夕方   「海を見たことがない」と語る 移動   湯治  
夜? 近江信楽小川城到着 ・メール執筆
・佐助を呼ぶ
   
6月4日   ・伊賀入り
・加太峠
・岡崎到着
・小県ミーティング
・厩橋城に行く
松救出   ・清水宗治切腹
・高松城開城
6月5日   安土城入り          


さて、どこからツッコむか……。ドイツもコイツもツッコみどころ満載で困りますが、まずは主人公を立てましょう。

信繁はいつ、安土城下の不穏な空気に気づいたのか。換言すると、安土城下はいつ、不穏な空気になったのか。本能寺から安土城まで瀬田の唐橋を通ったとして約47.6km。徒歩で9時間50分かかります。

本能寺の変が始まったのは夜明け後(午前4時過ぎ)。終わったのは午前8時ごろとされています。つまり本能寺の変自体が朝の出来事なのですが、安土も「朝から城下もごった返しておるな」(ヒゲ誠)、「西の方から大勢が逃げてきている」(三十郎)と、ほぼリアルタイムで人が移動しているのです。

まぁ、4時過ぎの時点でビビって逃げ出した慌て者が、驚異の持久力を発揮して5時間走り続ければ9時過ぎには安土に着きますが。しかし、燃えたのは本能寺のみ。禁門の変時の「どんどん焼け」じゃあるいまいし、「大勢が逃げてきている」「城下もごった返しておる」という状態になるのか? 実際、信繁が京に着いたときは火事跡見物するくらい余裕があったわけですが。

さて、信繁はいつ京に出発したのか? ヒゲ誠が「朝から」と言っているので、既に朝ではない。とにかく、昼間のうちに出発しました。途中、明智の軍を見て急いだりしていましたが、基本的には歩いていたので9時間くらいはかかったでしょう。出発が早朝でもないかぎり、京に着くのは夕方から夜。

京に到着して本能寺の焼け跡見物していたのは昼間だったので、京に到着したのは6月2日ではない。どこかで一泊して、京に着いたのは6月3日の朝以降といったところでしょう。

ここで松が危ないと察し、本能寺見物時に後ろにいた馬を入手(買った?)。これに乗って安土にとんぼ返りします。木曽馬でも時速40km出せる(らしい)ので、45kmなら1時間強。ただし、サラブレッドでも全力疾走できるのは数km程度。木曽馬の持久力はそれ以下(しかし坂道には強い)なので、休ませながら走ると時速10km強程度。結局、数時間はかかったことでしょう。

本能寺で焼け跡を見たのが午前中だとすれば、3日中に安土に帰るのは不可能ではなさそうです。ただし、松の救出は明智軍が来る5日より前であればいい(4日中でOK)ので、信繁のスケジュールは割と余裕があります。

それより、山岡景隆が瀬田の唐橋を焼いちゃったから、明智軍ともども瀬田川を渡れなかったはず。信繁、どうやって渡ったんだろう。