『真田丸』第5回、「本能寺の変」直後の人物移動はかなりギリギリ(昌幸編)
カテゴリ:資料&ネタ
日時:2016/02/11 00:07
では、問題ありありの昌幸編(信繁編)。
6月4日までに第5回の内容を押し込むのは無理があります。そのため、「昌幸や一益のくだりは時系列が違う」という説もありますが、それではつまらないので2日間に収めてみましょう。「時系列が違う」説は、ドラマとして散らかるだけで、全く面白くありません。それより、同じ時系列で
・変をいち早く知り、でも死ぬ目に遭った家康
・安土にいたのに変を知るのが遅れた信繁
・信濃にいたのに変を知っていた昌幸
・織田の重臣なのに変を知らない一益
が動き、情報伝搬のムラによって生じるドラマ、という方が面白いのではないでしょうか。
というわけで、昌幸たちの行動も6月4日までであるという枷をはめてみるとどうなるか。
まず、昌幸は京から戻った薬売りから、
・都は明智の旗で埋め尽くされている
・信長が泊まっていた寺は焼け落ち、跡形もなかった
という情報を得ます。寺についての描写から、本能寺の変終了後、焼け跡を観察出来るほど明るくなり、明智兵が本能寺を離れて京の掌握に動いた(掌握した)ところまで、京の様子を見届けたことが分かります。が、スケジュールが押しているので9時くらいには出発してもらいましょう。
薬売りさんには、ここから真田の郷まで361~380kmの距離をダッシュしていただきます。ではいつまでに着けばよいか。昌幸さんは厩橋城に行かなければならないので6月4日は空けておきたい。すると、6月3日の「日が傾く前」がギリギリのライン。そこで、薬売りが移動に使える時間は6月2日9時~6月3日17時の32時間としてみましょう。
360kmを32時間ノンストップで移動すると、時速11.2km。ただし6月2日は月明かりがないので、夜はとことん暗いはず。夜道は危ない。6月2日19時~6月3日4時は休んでいただきましょう。
すると残りは23時間。時速15.6kmで走り続ければ間に合います。大人が走ったときの時速は15、6km。箱根駅伝の選手が時速20kmくらい。をを、何とかなりそうだ! 恐ろしくハードですが、信幸は「京から来た薬売り」ではなく「京から戻った薬売り」と言っていたので、薬売りは真田の人。しかも行商人ですから忍びである可能性は高いでしょう。忍びなら持久力はあったはず(ということにしておこう)。
ほぼ同時刻に明智の使者が到着します。書状には6月3日の日付が入っています。
光秀が京と近江を制圧しつつ、坂本城に戻ってから書かれたものでしょうか。坂本城から真田の郷までは、最短で356km。到着時刻は薬売りと同じとして(ホントはちょっとズレてるけど)6月3日17時。なる早で着きたいので、夜明け後の5時スタートに決定。非常時ですから、書状は祐筆が徹夜で書いたことにします。
356kmを12時間で走破すると、時速30km。馬でもかなりハイペースなので途中で代え馬する必要があります。ただし移動経路のほとんどは、治安の良さに定評のある織田領。江戸時代の東海道ほどのインフラ整備は望めないものの、大きな城下町ごとに代え馬をゲットするのは難しくないでしょう。変の情報が広まっていなければ、かなり効率的に移動できた可能性があります。をを、使者も何とかなりそうだ。
しかし、12時間も馬に乗り続けたらそうとう疲労したはず。お尻も痛かったはず。やはりゆるりと湯治していただきたい。
こうして6月3日の夕方直前に、本能寺の変の情報が昌幸さんにもたらされました。意外と何とかなるもんだな。
信長の死を知り激発し、信幸に弱音を吐いた後、冷静さを取り戻します。そして、「わしは海を見たことがない」と昌幸が語ったシーンでは、夕方になっていました。さらに、オモシロからくり部屋で書状?を書き、松の危機に思い当たって佐助を呼びます。この時点で夜になっていました。これで6月3日は終了。
翌6月4日は、小県の国衆ミーティング。昌幸は忙しいので、朝イチで招集の使いを出し(夜書いていたメールは招待状?)、9時ごろ集まったことにしておきます。一方、信尹は春日山城で景勝と会見。信尹がいつ移動したのかはともかく、昌幸が冷静になった6月3日の夕方以降に直接あるいはメールで指示を出す必要があります。
真田の郷から春日山城まで約100km(96.7~108km)。馬なら数時間。夜明けごろ出発しても9時すぎには着きます。そこで数分話し、上杉情報メールを書いて昌幸へ送信したのが9時30分。急いだとして4時間で着いたとすると、昌幸が上杉に見切りを付けたのが13時30分。
そして一益から呼び出し。一益は本能寺の変に影響されずに行動しているので、いつ呼び出しの使いを出したのかを考える必要はありません。
こうして、昌幸と信幸は厩橋城へ。ヒョイと移動していますが、真田の郷から厩橋城まで88.4~94.4km。取りあえず90kmとしておきましょう。厩橋城のシーンも昼間だったので、日が傾く前に着いていただきたい。
この時点で昌幸と信幸は一益の意図が分からず警戒気味だったので、急いだかもしれません。いや、急いでくれないと困る。馬に乗り、4時間でグンマーを駆け抜けたことにしましょう。これで17時30分ごろに到着。日が傾く前に一益と話すことに成功しました。
一益が縁側で信長について語るシーンは、一益の顔が白飛びするほど明るいライティング。14時、15時くらいの日光って感じでしたが、気にしないことにします。
というわけで、強引な点が多々あるご都合主義満載のスケジュールですが、何とか6月4日までにドラマの出来事をぶち込むことに成功しました。
なお、あくまでも本稿は「第5回の内容が全て6月4日までの出来事」と仮定した場合の思考実験、つまりお遊びです。まじめに受け取らないでくださいね。
6月4日までに第5回の内容を押し込むのは無理があります。そのため、「昌幸や一益のくだりは時系列が違う」という説もありますが、それではつまらないので2日間に収めてみましょう。「時系列が違う」説は、ドラマとして散らかるだけで、全く面白くありません。それより、同じ時系列で
・変をいち早く知り、でも死ぬ目に遭った家康
・安土にいたのに変を知るのが遅れた信繁
・信濃にいたのに変を知っていた昌幸
・織田の重臣なのに変を知らない一益
が動き、情報伝搬のムラによって生じるドラマ、という方が面白いのではないでしょうか。
というわけで、昌幸たちの行動も6月4日までであるという枷をはめてみるとどうなるか。
正体は忍び!? 信濃までダッシュする薬売り
まず、昌幸は京から戻った薬売りから、
・都は明智の旗で埋め尽くされている
・信長が泊まっていた寺は焼け落ち、跡形もなかった
という情報を得ます。寺についての描写から、本能寺の変終了後、焼け跡を観察出来るほど明るくなり、明智兵が本能寺を離れて京の掌握に動いた(掌握した)ところまで、京の様子を見届けたことが分かります。が、スケジュールが押しているので9時くらいには出発してもらいましょう。
薬売りさんには、ここから真田の郷まで361~380kmの距離をダッシュしていただきます。ではいつまでに着けばよいか。昌幸さんは厩橋城に行かなければならないので6月4日は空けておきたい。すると、6月3日の「日が傾く前」がギリギリのライン。そこで、薬売りが移動に使える時間は6月2日9時~6月3日17時の32時間としてみましょう。
360kmを32時間ノンストップで移動すると、時速11.2km。ただし6月2日は月明かりがないので、夜はとことん暗いはず。夜道は危ない。6月2日19時~6月3日4時は休んでいただきましょう。
すると残りは23時間。時速15.6kmで走り続ければ間に合います。大人が走ったときの時速は15、6km。箱根駅伝の選手が時速20kmくらい。をを、何とかなりそうだ! 恐ろしくハードですが、信幸は「京から来た薬売り」ではなく「京から戻った薬売り」と言っていたので、薬売りは真田の人。しかも行商人ですから忍びである可能性は高いでしょう。忍びなら持久力はあったはず(ということにしておこう)。
明智の使者はお尻が心配だ!
ほぼ同時刻に明智の使者が到着します。書状には6月3日の日付が入っています。
光秀が京と近江を制圧しつつ、坂本城に戻ってから書かれたものでしょうか。坂本城から真田の郷までは、最短で356km。到着時刻は薬売りと同じとして(ホントはちょっとズレてるけど)6月3日17時。なる早で着きたいので、夜明け後の5時スタートに決定。非常時ですから、書状は祐筆が徹夜で書いたことにします。
356kmを12時間で走破すると、時速30km。馬でもかなりハイペースなので途中で代え馬する必要があります。ただし移動経路のほとんどは、治安の良さに定評のある織田領。江戸時代の東海道ほどのインフラ整備は望めないものの、大きな城下町ごとに代え馬をゲットするのは難しくないでしょう。変の情報が広まっていなければ、かなり効率的に移動できた可能性があります。をを、使者も何とかなりそうだ。
しかし、12時間も馬に乗り続けたらそうとう疲労したはず。お尻も痛かったはず。やはりゆるりと湯治していただきたい。
信尹、早くメールを送ってくれ!
こうして6月3日の夕方直前に、本能寺の変の情報が昌幸さんにもたらされました。意外と何とかなるもんだな。
信長の死を知り激発し、信幸に弱音を吐いた後、冷静さを取り戻します。そして、「わしは海を見たことがない」と昌幸が語ったシーンでは、夕方になっていました。さらに、オモシロからくり部屋で書状?を書き、松の危機に思い当たって佐助を呼びます。この時点で夜になっていました。これで6月3日は終了。
翌6月4日は、小県の国衆ミーティング。昌幸は忙しいので、朝イチで招集の使いを出し(夜書いていたメールは招待状?)、9時ごろ集まったことにしておきます。一方、信尹は春日山城で景勝と会見。信尹がいつ移動したのかはともかく、昌幸が冷静になった6月3日の夕方以降に直接あるいはメールで指示を出す必要があります。
真田の郷から春日山城まで約100km(96.7~108km)。馬なら数時間。夜明けごろ出発しても9時すぎには着きます。そこで数分話し、上杉情報メールを書いて昌幸へ送信したのが9時30分。急いだとして4時間で着いたとすると、昌幸が上杉に見切りを付けたのが13時30分。
走れ昌幸、ラストスパート
そして一益から呼び出し。一益は本能寺の変に影響されずに行動しているので、いつ呼び出しの使いを出したのかを考える必要はありません。
こうして、昌幸と信幸は厩橋城へ。ヒョイと移動していますが、真田の郷から厩橋城まで88.4~94.4km。取りあえず90kmとしておきましょう。厩橋城のシーンも昼間だったので、日が傾く前に着いていただきたい。
この時点で昌幸と信幸は一益の意図が分からず警戒気味だったので、急いだかもしれません。いや、急いでくれないと困る。馬に乗り、4時間でグンマーを駆け抜けたことにしましょう。これで17時30分ごろに到着。日が傾く前に一益と話すことに成功しました。
一益が縁側で信長について語るシーンは、一益の顔が白飛びするほど明るいライティング。14時、15時くらいの日光って感じでしたが、気にしないことにします。
というわけで、強引な点が多々あるご都合主義満載のスケジュールですが、何とか6月4日までにドラマの出来事をぶち込むことに成功しました。
なお、あくまでも本稿は「第5回の内容が全て6月4日までの出来事」と仮定した場合の思考実験、つまりお遊びです。まじめに受け取らないでくださいね。
光秀 | 家康 | 昌幸 | 信繁 | 薬売り | 明智の使者 | 秀吉 | ||
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6月2日 | 未明 | 本能寺の変 | ||||||
日中 | 京、 近江 制圧 | 本能寺の変を知る | ・異変を知る ・京に出発 | 本能寺の変を知る | ||||
夜? | 山城宇治田原到着 | 移動 | 本能寺の変を知る | |||||
6月3日 | 夜~朝 | 本能寺情報を 信幸に伝える | 坂本城からスタート? | |||||
日中 | 本能寺の変を知る | ・本能寺見物 ・安土へ出発 | 真田の郷到着 | |||||
夕方 | 「海を見たことがない」と語る | 移動 | 湯治 | |||||
夜? | 近江信楽小川城到着 | ・メール執筆 ・佐助を呼ぶ | ||||||
6月4日 | ・伊賀入り ・加太峠 ・岡崎到着 | ・小県ミーティング ・厩橋城に行く | 松救出 | ・清水宗治切腹 ・高松城開城 | ||||
6月5日 | 安土城入り |