大河ドラマ「功名が辻」 第10回 戦場に消えた夫

カテゴリ:功名が辻
日時:2006/03/12 21:44

コリン星人との情事を自白したところからスタート。原作では最後まで小りんのことを隠し通し、ときに一豊の罪悪感の描写を挟みつつ、(この点に関しては)千代は満足な生涯を終えたことになっていた。

さて、原作では京から帰宅した後、千代に誘導されて家臣探しとなる。200石に加増されたのだから、騎馬武者2騎と徒6、7人が必要なのだ。夫婦喧嘩をしている場合ではないのだが、ドラマはそれどころではない。完全にコントであった。予告でも見たが、「小りんなんておかしな名前~」には笑った。

さて、姉川の戦い。原作の、若干コミカルな一豊主従の奮戦が割りと好きだったんだけどなぁ。静御前オリジナル展開には少々ガッカリだったが、意外に司馬原作が生かされていてちと感心した。 姉川開戦直前の信長本陣のシーン。やってきた「ピアノが弾けない家康に熊の敷物を用意する秀吉」は、「新史太閤記」から。
家康は立たされたままである。猿はそれに気づき、そのあたりを駆けまわって熊の敷皮を一枚都合して来、「三河守殿、これへ」と、家康のために敷いた。
とある。

続いて家康の部署をするシーンに続く。ここは、信長がわざと家康を軽んじる態度を示して家康を奮起させ、より被害の多い部署に志願させるという心理戦である。ドラマでは、家康に後詰めを指示する。これは、「功名が辻」に従っている。司馬太閤記の同シーンでは、「三河殿はどこへなりとも、敵の弱そうなあたりに付かれよ」と、微妙に異なっているのだ。次に、信長が兵を貸すといって家康が稲葉良道隊1000人を要求したところは司馬太閤記から(功名が辻にこの記述はない)。つまり、わずか数分のシーンであるにもかかわらず、太閤記と功名が辻のエピソードをパッチワークのように使っていたのだ。

パッチワークといえば、以前番組の冒頭で千代紙の語源を千代とする説を紹介していたが、あれはいかがなものか。あのときツッコミそびれたのでここでツッコんでおこう。

確かに「千代紙の語源は千代」は有名な話だが、「『玉の輿』の語源は家光側室お玉」と同レベルの俗説にすぎない。ちなみに、千代紙の語源については、

・宝慈院の開祖 如外無着大禅尼の幼名「千代野」
・京都で、鶴亀や松竹梅が刷られた紙で長寿(千代)を祝う習慣
・江戸城の別名「千代田城」で使われたから

などの説があり、山内一豊室に由来するという説は特に有力なわけではない。そもそも一豊室の名については「千代」と「まつ」の2説があり、「千代」と確定しているわけではない。最近では、千代もまつも別人の妻であり、山内一豊室の名は「どちらでもなかった」という説が有力視されている。つまり、ますます千代紙との関連は薄まっているのである。

現時点では、「千代紙の語源は千代」はガセビアと考えた方が無難だ。