大河ドラマ「八重の桜」 第49回 再び戦を学ばず 感想

カテゴリ:八重の桜
日時:2013/12/08 21:54

今回は覚馬容保の死が語られ、そこそこ目頭が熱くなるのですが、これまでにもう少し泣けるエピをちょいちょい挟んでおいてほしかったところ。また、今回もノベライズよりセリフが大幅にカットされていて、ドラマは情報量が非常に少なくなっていることも残念です。もう少しエピを取捨選択して1シーンのボリュームを増やした方がよかったのでは。これはこれで間延びする原因になってしまいますが。

明治24年(1891年)、同志社女学校の卒業生、三崎絹子と寺田ヒロ子が篤志看護婦に参加。「外地で戦云々」などなど、「軍靴の音が聞こえる」今日この頃です。

ちなみに、この年の5月にあったのがかの大津事件。ロシア皇太子ニコライを大津三造が切りつけた事件です。ニコライ2世の日記によると、彼は全然怒ってませんでしたが。 そのころ、山川健次郎が山本家を家庭訪問。が『京都守護職始末』を執筆するので当時のことを聞かせてほしい、と。で、ノベライズでは八月十八日の政変(文久の政変)から禁門の変、大政奉還後の会津が都を追われるまでを綴っているわけですが、ドラマではさらっと流す程度。このあたりは2015年にまたくわーしくやるでしょうからこれで十分です。というか禁門の変とかそんなに頻繁に映像化してくれなくて結構なんですが。

健次郎「書き残さなければなりません。殿が、会津が、いかに日本を思い、勤王の志が高かったかを」
覚馬「勤王の志は薩長も持っていた」
(中略)
健次郎「会津には義がありました」
覚馬「向こうも、同じように思っていただろう」

ここで八重と健次郎が会津視点しか持っていなかった一方で、覚馬だけが両陣営を相対化していたところが印象的。また、ノベライズでは覚馬のセリフのみでそれ以外の描写はなかったのですが、ドラマでは覚馬が御家訓を口にすると、八重と健次郎が姿勢を正して平伏していて、演出グッジョブ。

明治25年(1892年)12月28日、覚馬危篤。

覚馬「会津はもう、雪だべか……。やっと帰んな」

本ドラマ前半の主人公、覚馬死亡。

その数日後、浩と健次郎が容保の屋敷を訪問。容保は2人に御宸翰と御製を託します。そして翌明治26年(1893年)、容保死亡。英照皇太后から牛乳を賜った話とか、明治21年の磐梯山噴火時の被災地慰問など、ちょっとは容保エピを入れてもよかのでは。

で、前半の重要人物なのに後半は異常に扱いが悪かった容保の訃報を目にした八重は泣き崩れます。すると、背後から聞こえてくるニイジマジョーの声。近づいてくる影。肩にかかる手。


怖っ!!!

明治27年(1894年)3月、東学党の乱に対して派兵を閣議決定。8月1日、日清開戦。八重は篤志看護婦として広島に向かうことになります。日清戦争そのものについては『坂の上の雲 第3回』へ。まぁ、ドラマの日清戦争のくだりはかなり出来が悪くてガッカリものですが。

2013年 大河ドラマ「八重の桜」キャスト(配役)
大河ドラマ「八重の桜」 主要人物年齢年表(会津編)
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