大河ドラマ「八重の桜」 第38回 西南戦争 感想

カテゴリ:八重の桜
日時:2013/09/22 23:08

明治10年(1877年)2月、今出川のおニュー校舎を訪れるニイジマジョー&八重覚馬西郷から譲り受けた薩摩藩邸跡地ですね。仮校舎だった旧高松保実邸跡地から、いよいよ同志社の本当の発祥の地にやってきた瞬間でした。

そこに、西郷挙兵の知らせを持って駆け込んできた徳富蘇峰。という実に作為的な流れで、たった1回だけの西南戦争編スタート。

西郷挙兵の報に衝撃を受けたのは、覚馬さん。

覚馬「九州全土が戦場になる」

お馬鹿さんの西郷軍は熊本城攻略に妙にこだわる愚行・愚策で消耗しちゃったので、主戦場はほぼ熊本だけですんじゃいましたけどね。まー結果論ですが。逆に、西郷軍の不幸は、熊本城には谷干城、樺山資紀、児玉源太郎、川上操六、奥保鞏などなど、名将が山盛りだったことでしょうか。彼らがいなければ、熊本城は西郷軍の目論見通りあっさり落ちていたのかもしれません。 2月19日、追討発令。2月22日、熊本城攻防戦開始。戦闘開始でアンダーな八重と覚馬。そこへ、女学校開設許可が下りてハッピーなジョーが帰宅。温度差がすごい。

八重「会津を滅ぼしてまで新しい国をつくったはずなのに」

敗者から見れば、もっともなセリフです。

3月4日、20日まで続く田原坂の戦闘開始。苦戦する政府軍は、抜刀隊を編成します。ここで大山巌の呼びかけに最初に志願したのが佐川という流れ。が、抜刀隊が投入されたのは田原坂。佐川が戦死したのは阿蘇。全然違うところで戦っています。まぁドラマはあくまでドラマなので、面白くなる改変は否定しません。

で、佐川に旧会津藩士だと名乗られ、感慨深い大山。

大山「まさか会津と手をば組んであにさあと戦するこつになっとはな」

大山にこのセリフを言わせるため、と思えば佐川の抜刀隊参加という改変も悪くないかな。

3月20日、政府軍が田原坂を制し、西郷軍の陣所に踏み込む山川ら政府軍。ここで、何と、山川と西郷が邂逅。

えーーーーー。

ちょっとやりすぎでは……。両軍兵も妙に緊張感がなくて、変な場面です。政府軍が踏み込んでいるタイミングで総大将の西郷を野放しにしている西郷軍って……。まぁ、西郷の本音を政府軍の誰かに語らせる必要があって、その聞き役として最初の敗者である会津人が最適。さらに西南戦争に従軍した会津人としては山川がピッタリだった、と。

山川「戊辰の折、会津は幾度も恭順を示した。それでもにしらは会津を朝敵に落とした。何でそこまで会津を追い詰めた!」

山川「今のこの国は、会津人が……会津人が流した血の上に出来上がっている!」

西郷「そいを忘れたこつはなか。じゃっどん、もう収めんなならん。内乱は二度とは起こさん。おいが皆抱いてゆく」

そして4月14日、山川が熊本城包囲網突破、入城一番乗り。鶴ヶ城入城に次ぐ山川の有名な武勲です。つくづく包囲された城に入城するのが好きな人だな。

なお、山川が熊本城に入城するに当たって阿蘇市の伝統芸能である虎舞を同行させたことはあまりにも有名、という事実はありません。

9月24日午前4時、城山に篭った西郷軍に政府軍が総攻撃を開始します。負傷した西郷は別府の介錯で死亡。特に描写はありませんでしたが別府や桐野らも自刃あるいは戦死して西南戦争は終結します。

場面は再び京都。無事オープンした女学校ですが、徳富初子、伊勢みや子、みねの3人が逃亡。同志社英学校に乱入。なにそれ怖い。

そういえば、伊藤博文役の人は、『平清盛』で西光をやってた人ですね。山県有朋は少しイメージが違いましたが、『坂の上の雲』の江守徹よりはマシかな。

2013年 大河ドラマ「八重の桜」キャスト(配役)
大河ドラマ「八重の桜」 主要人物年齢年表(会津編)
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