大河ドラマ「八重の桜」 第22回 弟のかたき 感想

カテゴリ:八重の桜
日時:2013/06/02 21:11

慶応4年(1868年)2月16日、容保は江戸藩邸から会津に戻ります。出立に際して、

容保「皆を置いて大坂を出たこと、今でもただただ恥じ入るばかり」

と語るあたり、このドラマの容保には悲痛さがつきまといます。ただ、見送る大蔵がフランス語で号令をかけたのにはやや違和感。幕府は確かにフランス式調練を採用していましたが、藩主を見送るのにフランス式はないだろうという気がします。

そして、京や江戸に上っていた藩士やその家族たちも会津に続々と帰郷。山本家に戻ったのは尚之助のみでした。

尚之助「三郎さんは果敢に敵陣に向かっていき、銃弾を浴びて命を落とされました」

「果敢に敵陣に向かっていき」というより、無意味に猪突しただけでしたが……。 三郎の死を受け入れられず人違いだと主張する八重ですが、尚之助が持ち帰った三郎の軍服には、八重が刺繍した南天。八重は鶴ヶ城籠城戦で三郎の軍服を着るはずですが、このボロを着るのでしょうか。

しかしこのシーンは、尚之助に泣きながら礼をいう権八(泣)が全てもっていってしまったのでした。このおとっつぁまは、コミカルな場面も重いシーンも、泣けるところもとてもすばらしい。ついでにうまいモノを食べるシーンがほしかった。ちなみに、ノベライズでは権八が三郎との思い出をかみしめるくだりがあるのですが、残念ながらカットされてしまいました。ノベライズの文章でも危ないのに、これを松重豊の演技でやられたら涙腺が決壊してしまいます。

新政府軍が三方面から東国を東進する中、鶴ヶ城では対策ミーティング。抗戦論と恭順論が入り乱れ、内蔵助が口を開きます。

内蔵助「戦に敗れたままで、武士の一分が立ちましょうや。言われなき朝敵の汚名を蒙り、恭順したままで、会津の面目が立ちましょうや」

敗戦の責めおを負わされて腹を切った修理の父の言葉だけに、切ないものがあります。ここで容保が恭順を貫くと宣言。ただし、

容保「攻めてくるならば全藩をもってこれと戦う!」

3月10日。会津は長沼流軍学を捨て、玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊を編成します。

都では、奥羽鎮撫使が出陣の準備。総督の九条道孝が討伐する前に会津が降伏する可能性を問います。これに答える大山格之助と……

うわ、世良修蔵が小沢仁志!(笑) 分かってるなーNHK。徹底的に世良を憎まれ役として視聴者にまで憎まれるくらい憎々しく描くつもりですな。世良のポジションにピッタリの配役に戦慄しました。容保、慶喜に続く神キャスティングです。世良の場合、顔は似てませんが。

大山格之助は、後の大山綱良。鹿児島県令として西南戦争では西郷に協力し、処刑される人物ですね。

そのころ、江戸には東征軍が集結し、3月15日の江戸城総攻撃の準備中。そのとき、薩摩藩邸にひょっこり乗り込む勝海舟。万国公法と江戸市中の民の犠牲を持ち出して説得する勝。これに動かされた西郷は、江戸城総攻めの中止を決意します。ドラマではわずか数分でケリがついた江戸城無血開城ですが、実際には西郷と勝は13日と14日に会談しており、それなりに難航したと思われます。もっとも、事前に山岡鉄舟が駿府で西郷と交渉して下準備はできていたわけですが。

ただ、西郷は怖いことも口にしています。

西郷「さてそげんなれば……振り上げた拳をばどけ下ろすかじゃな」

これが会津に向けられてしまう、と。

江戸城総攻撃中止の調整を行う西郷は、書状の中に覚馬の嘆願書を見つけます。その内容に感心し、覚馬の処刑を中止させる西郷ですが、覚馬の「会津を助けてくれ」には無返答。大久保から会津が不満分子の核となる可能性を示唆され、会津討伐を決意してしまいます。

会津戦争決定。

2013年 大河ドラマ「八重の桜」キャスト(配役)
大河ドラマ「八重の桜」 主要人物年齢年表(会津編)
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