大河ドラマ「八重の桜」 第20回 開戦!鳥羽伏見 感想

カテゴリ:八重の桜
日時:2013/05/19 21:36

慶応3年(1867年)12月。大坂に下るという慶喜に会津藩士が激高。慶喜に対して、直答どころか話しかけちゃったりしてます。

世が世なら、会津藩士は陪臣。会話するどころか、お目見えすらできなかったのでは。慶喜が大政を奉還して制度があらたまっても、精神面まではなかなか切り替わらないはず。今までお目通りすら叶わなかったレベルの人に、話しかけるどころか感情をぶつけるようなことができたかどうか。まぁ、俺たちの慶喜さんはナメられてたからOKだったかも。

「余に考えがあってのこと」という慶喜にその策を尋ねると、

慶喜「秘策ゆえ、今は語れぬ

と。結局、俺たちの慶喜さんの秘策って何だったのでしょう。まぁ、あの時点だと年単位で時間を稼いで幕府側の兵制・軍備改革を進めるのが最も手堅い戦略だったはずですが。 12月12日、慶喜が二条城の裏門から大坂に出発。会津も大坂に同行する中、覚馬は銃の受け取りのため京に残留。薩摩に捕まる準備完了です。

梶原二葉らは江戸の平馬の下へ。寅千代は平馬の一子 景清か。

会津では、女性陣が諏訪神社へ幟の奉納。頼母の縁者も、妻千恵の他、妹の眉寿、由布、細布、瀑布が登場。会津戦争時に自害しちゃう人たちばかりですね。ちなみに、山川家も艶、登勢の他、二葉の妹の美和、操、常磐、咲もいたようです。

そこへ照姫登場。さらに、竹子が遅参。遅参の竹子を責める綾絵と久栄(誰?)。遅参の理由を聞いた照姫様、竹子を試します。

照姫「言葉に偽りがないなら、その思いを歌に詠んでみよ」

遅刻の理由を歌にして、幟に書けとな。ちと不自然な展開です。ここでの歌を通して竹子と八重が分かり合うわけですが……。歌を詠む展開にしたいがゆえの強引さが気になりました。

大坂では、慶喜が英仏米蘭伊普の公使とミーティング。日本の外交権を徳川が担うことを認めさせてしまいます。このあたりは慶喜の政治的勝利。西郷と大久保は、これを軍事的勝利で覆す決断を下し、江戸で挑発を開始。庄内藩がこれに引っかかります。

で、ドラマではカットされていましたが、12月28日、慶喜に対して朝廷から上洛命令が下ります。

慶喜「余が新政権に加えられることは、まず間違いあるまい」

ニッコリの慶喜さんの下へ、江戸で戦勃発の知らせ。ここでドラマの

慶喜「しまった。火種は江戸にあったか……」

につながります。激高した兵の声を聞いた俺たちの慶喜さん、挙兵を決断しちゃいます。「士気の高まりを勝機とみた」というなら様になりますが、俺たちの慶喜さんはちょっと違います。

慶喜「一万五千の猛り立つ兵をどうやって鎮めるのだ。薩摩を討たねば、あの怒りはわしに向かってくる。主君のわしが殺されるやもしれぬ。もはや戦うしかない」

つまり、自分の兵にビビっちゃった、と。さすが、ブレません。

慶応4年(1868年)1月1日。慶喜が薩摩討伐を宣言。2日、幕府方1万5000の兵が鳥羽伏見の街道へ。が、薩摩軍とにらみ合いの膠着状態へ。

が、まずは鳥羽街道方面で開戦。次いで林隊も戦闘状態に。激戦の中、教官もとい容保様もとい林が戦死。林の死をいたむ容保の描写も含めて割と名場面。泣けるほどではありませんでしたが。林が何発も銃弾を受けるシーンがない方がよかったかな。あの場面をもう少し微妙な描写にしてダメージを曖昧にしていた方が、伏見奉行所からの敗走シーンも印象的になったのでは。

本格的な悲劇は次回からですねぇ。三郎に修理に……。

2013年 大河ドラマ「八重の桜」キャスト(配役)
大河ドラマ「八重の桜」 主要人物年齢年表(会津編)
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