大河ドラマ「平清盛」 第16回 さらば父上

カテゴリ:平清盛
日時:2012/04/22 21:36

今回は史実を軸に、各陣営が保元の乱フラグを立てまくっていました。それぞれギスギスしてきて、いいぞもっとやれ

久安6年(1150年)9月26日、忠実に命じられたダメ義さんが忠通の屋敷(東三条邸)を襲撃。東三条邸と摂関家の家宝である朱器台盤を接収します。これにより藤氏長者の地位も頼長に奪われてしまいます。

このエピソードは忠実&頼長の強大化を語るとともに、保元の乱の大フラグ、つまり頼長の没落と死のきっかけの1つです。

さらに、鳥羽院に接近しつつある義朝と摂関家ベッタリのダメ義さんの対立も忠通邸襲撃事件で先鋭化。ダメ義&義朝親子の関係もまた、保元の乱フラグですね。

仁平元年(1151年)、高野山大塔再建の功をもって忠盛が刑部卿、清盛が安芸守に任ぜられます。ドラマでは平氏を目の敵にし続けている頼長ですが、忠盛を刑部卿にするに際して、彼は
生まれは卑しいものの、正四位上・内蔵頭・播磨守を歴任しているので問題はない(Wikipediaより)
と、肯定的な意見を述べたとか。 鳥羽院御所からの帰り、忠盛はダメ義さんと出会います。

ダメ義「倅に言われた。わしのしていることは盗賊と同じだと」

が、こんな一面も見せます。

ダメ義「源氏と平氏、いずれが強いか。それを定める日まで、わしは地を這うてでも生き残る

かっこイイじゃないですか、ダメ義もとい為義さん。「武士の誇り」などと言いつつビジョンもなく独りよがりに指揮棒をふるっている俺様千秋義朝様より大人です。

清盛と愉快な仲間たちの安芸下向のくだりは……どうでもいいや。

盛国「神々も逃げ出しかねない風情にございますな

は面白かったけど。

一方、摂関家の内訌は、頼長の内覧宣下によりますます激化。ドラマでは美福門院と語るシーンも含めてこのときの忠通を「摂政」としており、ドラマストーリーにも
忠通が摂政の座にいるのにもかかわらず、同等の権力を持つ内覧が置かれること自体、異例のことだった
とあるのですが、仁平元年時点では忠通は摂政ではなく「関白」です(久安6年つまり1150年の12月8日に、摂政から関白に)。頼長の内覧宣下が久安7年(1151年)正月16日。よって、この時点では「摂政と内覧」ではなく「関白と内覧」でなければいけません。

内覧になったのみならず、勤務態度が悪い官人の罷免を奏上して近衛天皇を悩ませる頼長(官人の屋敷に火を付けに行かなくてよかった……)。これに憤る「摂政」忠通さん。

得子「もっと煽ってさしあげましょう

女は怖いね。

美福門院の策動に乗せられ、やらかしてしまう頼長。仁平元年(1151年)9月、鳥羽院の近臣 家成の家人と名乗る男が頼長の屋敷の前で下馬しなかったことにキレた頼長は、為義さんに家成邸襲撃を命じます。ボロ屋敷でしょんぼりする佐藤二郎が何とも言えない。

これに激怒した鳥羽院。これに乗じて頼長邸襲撃を平氏に命じる美福門院。

女は怖いね。

が、清盛の進言により命令拒否を決断する忠盛。

忠盛「武士の世を作るためじゃ」

という、忠盛の拒否理由はイマイチよく分かりませんが。

その後、忠盛は一門ミーティングを開催します。「わしの身に万が一のことがあったときのため」と称して、事実上の遺言&形見分け。そして清盛を後継指名します。何にせよ、明確な意思表示はスムーズな代替わりに不可欠ですね。

仁平3年(1153年)正月、再び安芸に出立する清盛。ドラマストーリーでは「安芸に向かう船中」となっていますが、ドラマでは砂浜に置かれた小舟の中で目を覚ました清盛の前に忠盛が突然現れます

あー、プルーン忠盛死んじゃいましたね、これは。

いきなり木の枝でチャンバラごっこ(ドラマストーリーでは太刀を使用)。

忠盛「強うなったな、清盛」

ダースベーダーというか黒騎士(『さよなら銀河鉄道999』より)というか。陳腐だけど目頭が熱くなるセリフですな。

清盛が視線を戻すと、忠盛の姿は消え、彼が立っていた場所に宋剣が刺さっています。

仁平3年(1153年)1月15日、忠盛死亡。

最後に、再び頼長さんに語っていただきましょう。
仁平三年正月十五日、刑部卿忠盛朝臣卒す。 正四位上。先に出家すと云々。去る十二日、所帯の官を辞す。数国の吏を経、富は巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人に軼ぐ。然れども、人となり恭倹にして、未だ嘗て奢侈の行有らず。時人これを惜しむ(『宇槐記抄』)
絶賛じゃないですか、頼長さん。

大河ドラマ「平清盛」キャスト(配役)
大河ドラマ「平清盛」 主要人物年齢年表
も第16回に合わせて更新しました。よろしければご利用ください。