大河ドラマ「義経」 最終回 新しき国へ

カテゴリ:義経
日時:2005/12/11 22:14

「志のためには討つしかない」か。義仲を討つと決断した頼朝の気持ちが分かったかな、ヨッシー。で、親兄弟が仲良く暮らす新しき国を作るために兄と戦う、と。メチャクチャですな。

で、さらに神経を逆撫でするような出来事が。またしても、うつぼの「キテシマタヨ」。しかも、鎌倉方が白河関を越えるという緊迫した情勢下で。一体どうやって平泉に入ったんだ? しかも「戦はいけない」って……うあぁぁぁぁうつぼ死んでくれ。もうイヤだ。ホントにイヤだ。つくづくイヤだ。吐き気がするくらいイヤだ。うつぼにかかわるあらゆる要素がイヤだ。CMに上戸彩が出るだけでもイヤだ。

それに比べて、ガクブル演技のいっけいはいいねぇ。泰衡がかわいそうに感じるってのは、脚本・演出・演技が成功している証拠であろう。うつぼとは大違いである。 そしてついにルビコンではなく衣川を渡ってしまった泰衡。余裕で逃げられる時間が有り余っていたにもかかわらず迎え撃つヨッシー。戦う必然性がイマイチ伝わってこないが、身の置き所に困って平泉に来た以上、ここで逃げても行くところがないから、と脳内補完で乗り切ることにしよう。

まず、あっというまに鷲尾討ち死に。いてもいなくてもいい、印象に残らない存在だったのでどうでもいいや。はい、さよなら。

次いで電車があぼーん。弁慶、気持ちは分かるが、泣いてる場合じゃないぞ。お前も戦えよ。お前が戦線を離脱したら、3人しか残らんじゃないか。

黛といえば、とにかく「何か」を異常に、見ていて引くくらい散らす男。これまでに桜、金粉、紅葉の過剰演出で失笑させてくれた。今回は花びらか……。黛にしては散らし方がおとなしいが、ヘンな散り方だな。いきなり横から花びらが吹き付けてきたり。

このヘンな花びらに囲まれて、次郎討ち死に。血だらけの次郎に、不自然に吹き付ける花びら。……キレイなんだか汚いのか分からない画だな。「北条時宗」での、雪の中で宮迫(北条義宗)が自害するシーンはなかなかよかったのだが(義宗が死んだのは7月のハズだけど)。

三郎は……どうコメントすればよいやら。

で、なぜ持仏堂にアノ屏風が。ヨッシーが入ったときにはなかったように見えたが。瞬間物質移送機……デスラー戦法か!? しかも、ヨッシーが自害したら持仏堂の天井が抜けてるし。ドッカーンって白馬が出てくるし。何だ、このオカルト演出は。このヘンテコ演出のせいで、弁慶最後の見せ場である立ち往生が霞んでるし。

クソ演出は、頼朝の虫の知らせにまで及ぶ。ヨッシー自害の直後、何かを感じて飛び起きる頼朝。すると、政子がやってきて奥州からの知らせを伝える。

さて、これはどうしたことか。

頼朝がヨッシーの死を感じたのだと仮定すると、奥州から鎌倉への知らせが早すぎる。平安末期にはもう電報が実用化されていたのか?

奥州から鎌倉への知らせが通常の早馬だったとすると、今度は頼朝の反応が不自然に。虫の知らせって、馬と同じような速度で伝わるのか? それとも頼朝が鈍かったのか? まさか早馬到着を感じて飛び起きたなんてことはないよな。それじゃ繊細すぎ。

虫の知らせをやるなら、

頼朝、何かを感じて目を覚ます
   ↓
何だか分からないがイヤな気持ちになる
   ↓
数日後、奥州からの知らせがとどく
   ↓
「ああ、あれが九郎の最後であったか」と合点

だろ。起きたら知らせが届くってのは電話が普及した現代のやり方ではないか。



さて、文句をいいながら1年見続けたわけだが……やっぱり駄作だと思う。印象的なエピソードもそれなりにあったのだが、それだけだった。各エピソードは脈絡がないことも多く、年間を通したストーリーを紡がず細切れのエピソードを並べただけ。だから感動的なエピソードが後で活かされず、それどころかそのエピソードと矛盾する演出がなされることもしばしば。

手古奈や安徳帝の赤マフラー化など、ムダなキャラやエピソードが多かったことも残念。ほかにやるべきことがあったんじゃないのか?

1年を振り返って見ると、思い出されるのはダメな部分ばかり。いいところも多かったはずなのに。源平モノは面白いはずなのに、どうしてこんなことになったのやら。